Story 65.そばにいる。

お正月、春休みは真ちゃんの仕事が忙しく会えなかったけれど、きーちゃんはその間お手紙をたくさん書いて送ってくれていた。新学期が始まる頃、週に一度届くきーちゃんからの手紙が届かなくなった。初めは忙しいんだろうなと思ってそのままにしていたけど、連休が始まるまで一度も届くことが無く電話をかけても繋がらなかった。
「次の休みさ、ちょっと向こう行ってきたいねんけど」いきなり旦那が言い出した。「えらい急な話ね」全くそんな話をしていなかったから驚いた。「よう分からんねんけど」昼間に真ちゃんから、近いうちに来てもらえないかと電話があったらしい。マハルとタマキが居るし旦那だけでいいから来れるなら一度来て欲しいとのことで、声がいつもと違ったのが氣になると言う。「一緒に行かなくていい?」「子供ら連れてくのも大義やし、一回行ってくるわ」
きーちゃんから手紙が届かなくなったことと関係があるのかな。真ちゃんがわざわざ来て欲しいと言うのも珍しい。
店の連休を使って旦那は単独大阪に向かった。向こうに着くはずの時間になっても、翌日の昼間になっても連絡がなかった。電話をかけるか悩んでいると、ようやく旦那から電話がかかってきた。
きーちゃんが体調もそうだけど精神的に不安定で目が離せないらしい。私も行こうかと言ったけれど、今きーちゃんはとても敏感になっているから子供を連れて行くとなると、子供達にもきーちゃんにも負担になるだろうからと断られてしまった。仕方ないとは分かっているけど、もどかしい。精神的に不安定ってどうしてだろう。3年生に進級したから?それだけだったら、わざわざ真ちゃんが旦那を召喚するとは思えない。本当に大丈夫なんだろうか。

翌日の夜に旦那が帰宅した。流石に疲れているようだから、詳しく聞くのはやめた方がいいのか悩んでいると、子供達が寝ている間の方がいいからと話してくれた。
5月に入る頃、たまたま家に1人だったきーちゃんは空き巣と遭遇して襲われた。と旦那が言った。それだけで目眩がしそうだったけど、耐えて話を聞く。
きーちゃんは殴られた怪我もあってすぐに入院して、検査の結果、3日ほどで退院は出来た。入院した日から部屋を暗くしたり大きな音がしたり1人になってしまうとフラッシュバックを起こして錯乱状態になってしまう。退院した後も、変わらずで夜も寝られない状態が続いていた。家でも1人にしてしまうと、自傷行為をするようになってフラッと家を出て行ってしまうから目を離せなくなっていた。
真ちゃんは旦那にヘルプを出した。
旦那を迎えた真ちゃんもきーちゃんに付き添ってまともに寝られていないようで顔色が悪く、きーちゃんは旦那の姿を見ても何の反応もなくただそこにいるだけだった。
昼夜問わず、錯乱して発作を起こしてしまい治まっても一言も話さず何も食べない。本当にそこに居るだけのきーちゃん。真ちゃんはそんなきーちゃんに付き添っていた。
「私、きーちゃんの所行きたいんだけど」私が行かなきゃいけない氣がした。きーちゃんが遭遇してしまったことに対して怒りはもちろんあったけれど、それよりも先にきーちゃんの所に行きたかった。
ひとまずの荷物を用意をして車に乗った。旦那は反対することなく家の事は大丈夫だと送り出してくれた。私の体調を心配してくれたけど、反対しない人で良かった。
夜通し走って、朝方到着した。旦那が連絡してくれたみたいで、真ちゃんは驚いてはいたけどにこやかに迎えてくれた。真ちゃんの顔を見て、きーちゃんの状態は良くないことがわかった。真ちゃん自身の顔色もとても悪い。リビングのソファーに座っているきーちゃんは、私が入ってきたことに反応せずただ座っていた。
「きーちゃん…」声をかけると、きーちゃんの瞳が動く。「来たよ」きーちゃんの目から大粒の涙が落ちた。「ねーさん」声は出ていなかったけど、確かにきーちゃんは私を呼んだ。「なかなか会えないから来ちゃったよ」たくさん、涙が落ちる。「頑張ったねー」怖くて、理不尽に痛めつけられて。「もう大丈夫だからね。ホント頑張ったね」抱きしめるとひとまわり小さくなっていて、今にも消えてしまいそうなくらい弱かった。
今日はね、マハルもタマキも連れてきてないからずっときーちゃんと居るよ。

きーちゃんの顔が見られて良かった。きーちゃんは泣き疲れて寝ている。「真ちゃんも寝てきていいよ」ホント、ひどい顔してる。ウトウトしてもすぐに起きてしまうらしく、まとまって寝ていないと言う。旦那が来た時にまとめて休んだからと言うけど、何日前の話よ。「もっと早く言ってきたら良かったのに」
寝て5分も経っていないのに、きーちゃんは飛び起きた。「きーちゃん、もう大丈夫。みんな居るよ」抱きしめて背中を撫でるとまた落ち着いてくれる。これを真ちゃんは続けてるのか。「きーちゃんは大丈夫だから寝なさい」と真ちゃんに言うけど、大丈夫だと言って休もうとしない。
「きーちゃん、ベッド行こうか。私もちょっと休憩。真ちゃんも行くよ」きーちゃんが頷いたのを確認して、立ち上がらせる。あまり動いていないのか足取りは弱く、寝室のドアを開けるときーちゃんの足が止まる。暗い部屋が怖いのか。
私までベッドに入るのは少し悪い氣はしたけど我慢してもらおう。真ちゃんは相当疲れてる。最初は私を氣遣ってくれていたけど、仮眠した後交代してくれる方がいいと言い切るとすぐに寝てくれた。きーちゃんは、うとうとするけどまたすぐに起きてしまう。
夜通し運転してアドレナリンが出てるのかもしれない。身体の疲労はあるけど、まったく眠たくならない。
1時間ほどして、真ちゃんが起きて交代してくれると言った。きーちゃんはそれを聞いて起き上がろうとする。真ちゃんが手を貸そうとすると体が強張って震えてる。「キリコが来て落ち着いたから大丈夫やと思ってんけどな。ごめん。向こう行こう」真ちゃんでも、咄嗟に触れようとするとこうなってしまうらしい。
2人がリビングに向かうのを見て、もう一度横になって。旦那に連絡入れるの忘れてた。携帯を取りに行って、電話をする。マハルは起きてすぐ「かーちゃんは?」と言っていたけど「きーちゃん痛いしたからヨシヨシしに行った」と言ってくれたらしい。それを聞いて、マハルは「かーちゃん刀忘れたで」と言って保育園に行ったらしい。侍になりたいマハルは刀がお氣に入りで、私が「痛い!」というと、痛いのを斬ってやっつけてくれるからそのことだと思う。「かーちゃん、超強いから刀が無くても目からビーム出してやっつけるわ」と旦那が言うと「そっかー」と安心したらしいけど、この2人、自分の嫁(母)を大魔人か何かだと思ってないかしら。目からビームって何よ。失礼ね。
旦那はこっちは大丈夫だから、きーちゃんが落ち着くまで居ていいと言ってくれた。
目が覚めて時計を見ると昼過ぎだった。真ちゃんに休めと言いながら私の方が寝てるし。リビングに行くと、ソファーできーちゃんが寝ていた。リビングに行って少ししてから寝たらしく、まとまって寝るのは久しぶりだと嬉しそうだったけど、それなら真ちゃんも寝といたらいいのに。「1時間寝たらすぐ回復するようになってしまった」と笑う。私が来て助かったと何度もお礼を言ってくれた。
しばらくこっちで過ごして良いか聞いてみた。真ちゃんは構わないと言ってくれたけど、うちのことを心配してくれた。「きーちゃんは可愛い娘で妹だからね。美樹も同じだし。うちは氣にしないで」
多分ね、今は私じゃないとダメだと思う。真ちゃんも勿論きーちゃんの事を大事に思ってる。だから、こんなに無茶してまで付き添っていられるんだと思うけど、きーちゃんも真ちゃんの事を特別だと思ってたとしても、真ちゃんはやっぱりオトコなんだよ。きーちゃんが犯人と別だと認識していても、さっきみたいに条件反射で体が構えちゃうんだ。これは真ちゃんが悪いわけでないけど、多分きーちゃんは緊張し続けてしまう。
他人に言っても理解してもらえないかもしれない。私にとってマハルやタマキも大切だけど同じくらいきーちゃんの事が大切で、今きーちゃんに私が必要だと旦那も分かったからこうやって子供たちを置いてここまで来る事を許してくれたんだと思う。旦那にとっても、可愛い娘なんだよ。血が繋がっていなくたって、私たちは家族だ。

きーちゃんが起きたので、お風呂に入ろうと誘ってみる。リラックスにはお風呂が一番。
お風呂は偉大だね。ちょっと表情が柔らかくなった。氣になるのは、きーちゃんの声をまだちゃんと聴けてない。また、声、出ないのかな。腕と首筋にまだ新しい傷がいくつもあって、白い肌と傷のコントラストが痛々しさを倍増させていた。
「お、スッキリしたかー?」お風呂から上がって真ちゃんが聞くけど、きーちゃんは頷くだけでやっぱり喋らない。それでも、柔らかくなったきーちゃんの表情に真ちゃんは嬉しそうだった。

真ちゃんは食材を買いに出かけたけど、寝てないのに運転大丈夫なのかしら。私たちは、お茶を飲んだりしてゆっくり過ごす。きーちゃんは何をするわけでもなく、ソファーに戻って外を見ている。静かな部屋、何年振りかしら。マハルが産まれてから、なかなか静かな時間って取れてないからね。ある意味貴重な時間だわ。
1時間くらい経った。私は、お茶を飲みながら雑誌を読んでいた。「ねーさん、ごめんね」急いで顔をあげると、きーちゃんが私を見ている。やっときーちゃんの声が聞こえた。「美樹ちゃんも、マハルくんもタマキくんもごめんね」やっと声が聞けたのに、きーちゃんは涙をこぼす。        「何で謝んの。こういう時は『ありがとう』のが嬉しいって言ってんじゃん」しんどいのは自分なのに、真っ先に謝るのは自分な所は変わらない。「ねーさんに会いたかった」「いつでも会いに行くって言ってるのに、何で我慢したの。言ってよ。頑張ったね。」涙を拭いてあげたけど、止まらない。
もう一度お茶を淹れて、きーちゃんの隣に座る。やっぱりあれから声が出なかったらしい。あの日のことはちゃんと覚えて無いけど怖かった。暗い所に行くと、怖い氣持ちだけを思い出してしまう。と言う。
真ちゃんがずっと居てくれてるし、そこに居るのが真ちゃんだと分かっているのに時々怖くなる。自分じゃない自分が勝手に動いて勝手に怖がって勝手に真ちゃんを拒絶した。自分が別の自分に食われそうで怖い。あの日、呼んでも誰にも聞こえない声なんていらないと思ったら、喋れなくなってしまった。
少しずつ話してくれた。
旦那が来たことも分かっていて、真ちゃんが出かけた時は自分が怖くないように少し離れてついててくれて嬉しかった。けど、ありがとうが言えなかったと言う。「美樹もちゃんと分かってるよ。だから私に行ってこいって言ったんだよ」「今からでも言っていいかな」「遅くないよ。喜ぶよ。仕事が終わった位に電話しよ」そういうと、きーちゃんは「ありがとう」と言った。
「まず、真ちゃんが帰ってきたら言ってあげなきゃね」と言うと、笑顔を見せるきーちゃん。「あ、真ちゃんは多分面倒だとか嫌だとか絶対思ってないと思うからね」と付け足すときーちゃんは何度も頷いた。
車が止まる音がした。「荷物取りに行ってあげよ」と誘うとついて来てくれた。後ろの席で荷物をまとめていて私たちに氣付いて居ないみたい。「キリコ、手前のから持ってって」と後ろの席から聞こえる。私だけだと思ってるみたいだからきーちゃんに車に入っちゃえとけしかけてみた。「真ちゃん、おかえり」きーちゃんは声をかけて、すぐに降りて手前の荷物を持った。真ちゃんは驚いて振り返った時頭を打ったのか「痛っ」と聞こえたけど、すぐに車から降りて来た。「真ちゃん、ごめんね」また、謝ってる。こう言う時は『ありがとう』だって言ってるのに。真ちゃんも同じことを言ってしゃがみこんでしまう。多分、泣いてる。見なかったことにして、私は荷物を家に持って入った。
持って入った食材を冷蔵庫に入れていると2人が戻ってきた。やっぱり泣いたみたいで目が赤い。真ちゃん、意外と可愛いやつだなと思った。

きーちゃんの様子も落ち着いているみたいだから、真ちゃんには休んで貰った。きーちゃんも真ちゃんと休んでも良いよと言ったけど私と居ると言ってくれた。特に何かを話すわけじゃなく、お茶を淹れて私は雑誌を読んだ。きーちゃんはソファーに座って窓の外を見ていた。
「シードラゴンが来たよ」窓の外を見ながらきーちゃんが言った。シードラゴン?一瞬分からなかったけど、少し考えて昔海で会ったというシードラゴンのことだと思い出した。きーちゃんに海の世界に戻っておいでと言ったシードラゴンだ。「また海の世界に戻っておいでって言ってた?」「戻っておいでとは言わなかったけど…」きーちゃんは光を追っているようで、色んなところに視線を移しながら話を続けた。
「人は理不尽だって。どんなに人のことを想っても平氣で裏切って傷つけると分かったでしょ。って。それでもまだここに居る?って」
シードラゴンは、前もそんなことを言っていた氣がする。シードラゴンは、きーちゃんを自分のいる世界に連れて行きたいんだろうか。「あれは怖かったけど、あの人だけやもん。真ちゃんが居てくれるし、ねーさんも美樹ちゃんも優しいって言った」
「あなたたちの約束がまた周りに邪魔されて果たせないかもしれないのにそれでも続けるんだねって」「約束?」「どんな約束か分からないけど、夢の中ではわたし分かってたみたいでね、約束が果たせるまで続けたいって答えたよ」あなたたちの約束。きーちゃんと誰の約束だろう。
「なら、続けなさいって。戻る日まで見ててあげようって。裏切られても信じるなら、信じ通しなさいって」何だか深いな。このシードラゴンはきーちゃんとどんな繋がりがあるんだろう。自分の元に戻したいようなのに、外で過ごすきーちゃんを見守るシードラゴン。これは、きーちゃんの夢の話ではない氣がした。

夕方になって、旦那に電話をかけてみた。きーちゃんが「ありがとう」を伝えると嬉しかったみたいで、電話をかわると声が明るかった。もうしばらく居ると伝えて切る。「大丈夫なの?」ときーちゃんは心配そうだけど、「美樹だって全然大丈夫そうやったでしょ」と言うと笑顔を見せてくれた。
夕食を作ろうと台所に行くけど、包丁がない。ハサミもない。自傷行為してしまうと言っていたのを思い出した。どこかにしまってるんだ。そう言えば、お風呂にも洗面台にもカミソリが無かったし、ハサミもなかった。参ったな。きーちゃんに聞くのも変だしなぁ。困っていると、真ちゃんが起きて来た。
安心して休めたようで、顔色は良くなっていた。「あのさ、包丁とかどちらへ」「ああ、ごめん。こっちやねんけど…」カウンター越しにきーちゃんの様子を見る。きーちゃんは、こっちに背を向けて座っていた。それを見て、パントリーの一番上の棚から出してくれたけど「作るから休んでて」と言ってご飯を作ってくれた。
「キリエ、食べられそうか?」ご飯を作り出した真ちゃんがきーちゃんに声をかけた。きーちゃんはゆっくり首を振った。極端に食欲が落ちたきーちゃんの為に野菜を潰したものを冷凍していて、1回分づつこれをスープにしたりお味噌汁にしたりして出してるらしい。マメだね。子供らの離乳食の時でも私こんなことしてないわ。
きーちゃんは声を取り戻した。やっぱり私もきーちゃんにとって重要な存在であると自画自賛だと分かってるけど嬉しかった。けど、きーちゃんの精神状態は思ったよりもずっと不安定で、そして悪かった。夕食後、急に眠氣が来て横にならせてもらってきーちゃん達の声を聞きながらうつらうつらしていた。
「キリエ!大丈夫やから!そんなんせんでいい!」真ちゃんの声で目が覚めた。最初は状況が飲み込めず布団の中でぼーっとしていた。すぐにいろんなものが落ちる音がする。さすがに驚いて飛び起きた。
2人はいろんなものが散乱している台所に立っていて、真ちゃんはきーちゃんを抱きしめて動きを止めている。「キリコ今のうちに割れた皿拾ってくれん?」真ちゃんに言われた通り散乱していたお皿や調味料を片付けようとしゃがむときーちゃんの腕から血が落ちている。よく見ると首筋も切ったのか真ちゃんの服にも血が付いているのに氣付いた。「きーちゃん、血!」「大丈夫、すぐ止まるから。その前に片付けな、またやんねん」その間、真ちゃんはきーちゃんが動かないように抱きしめる。きーちゃんはずっと泣きながら声にならない声を出している。「キリエ、こっち見て、大丈夫」真ちゃんは何度もきーちゃんに声をかけるけど、きーちゃんには届かないようだった。
しばらくしてきーちゃんが脱力すると、ようやく真ちゃんが動いてきーちゃんをソファーに連れて行った。
「マジでキリコおって良かったーー」ソファーで寝たのを確認した真ちゃんが台所を片付けるのを手伝ってくれる。
真ちゃんがほんの少しトイレに立った時、きーちゃんは台所の洗い物をしてくれようとしたみたいだったけど、食事用のナイフを見つけてしまってそのまま血塗れになる程何度も自分を切っていた。「普通に話してたし、落ち着いてたからキリエが寝たら片付けたら良いって油断しとった」と後悔している。食事用ナイフまで自分を傷つける凶器になるんだ。そんなこと普通なら考えつかない。真ちゃんの油断なんかじゃない。
片付けが終わって、きーちゃんを見ると寝息を立てていた。「15分以上寝てんの奇跡やわ」と真ちゃんは少しホッとして嬉しそうに言った。「起こしてしまってごめん。多分大丈夫やから休んで」真ちゃんが心配だったけど、再びアドレナリンが切れたので布団に入ることにした。
「キリエ、こっち見て、大丈夫」真ちゃんの声がして目が覚めた。真ちゃんは何度もきーちゃんに声をかけているけど、腕の中のきーちゃんには届いていないようだった。
「ごめん」真ちゃんの「こっち見て」が「ごめん」に変わった。真ちゃんは謝ることはしていない。このごめんの意味を考えるとやりきれなくなった。真ちゃんはずっとこうやってきーちゃんが発作を起こすたび聞こえないきーちゃんに謝り続けているんだろうか。

明け方目が覚めて、リビングを見るとソファーで2人が寝ていた。きーちゃんにはちゃんと毛布がかけてある。やっと2人が寝られたんだと思うと少しホッとした。今、動くときっと起きてしまうからそのまま布団で2人が起きるまで待っておくことにした。
きーちゃんが少し動くと、すぐに真ちゃんは目を覚ましてきーちゃんの様子を見ている。こんな生活を何週間も続けてるんだ。「変わるよ」真ちゃんが休まないと参ってしまうだろう。多少なら役に立てる。「大丈夫、さっき結構寝たから。コーヒー淹れてくれたら嬉しい」
コーヒーをテーブルに置く。真ちゃんの右手に黒いリボンが巻かれている。「それは何?」聞くと、真ちゃんはきーちゃんに掛けられてる毛布を少しズラす。黒いリボンはきーちゃんの左手に巻かれている。「こうしな、寝た隙にどっか行こうとすんねん。マックスで睡魔が来た時はこうしな心配で寝られん」と笑う。自分の手に巻かれたリボンを反対の手で掴んで眠るきーちゃんを見ていると、このリボンはきーちゃんの命綱のように見えた。
真ちゃんがコーヒーを飲み終わらないうちにきーちゃんが目を覚ます。発作を起こして錯乱はしないものの、虚ろな目で周りを見渡している。きーちゃんの手が真ちゃんの手に触れて手を繋ぐと少しきーちゃんの表情が柔らかくなった。それを見る真ちゃんの表情も柔らかくなる。少しでも穏やかに眠れる日が来れば良いのに。

滞在2日目。きーちゃんは、寝たり起きたりを繰り返す。元々睡眠時間が短い子だったけど、明け方30分程まとめて眠っただけで後は5分もしないうちに目を覚ます。7時過ぎに朝食の後、真ちゃんと交代して休んでもらった。泣いて錯乱する事はないけど、ずっと虚ろな目で天井や何か見えないものを追っているようだった。昨日は少し話していたけど、また、話さなくなってしまった。目が合うと少し微笑んでくれたようだったけど、きーちゃんは何を見ているのかはわからない。
10時過ぎに真ちゃんが起きてくる。3時間も寝たのは旦那が来た時以来で「寝すぎて体が痛いわ」と笑う。真ちゃんがきーちゃんにスープを用意するけど、一口も食べない。私が来てから、飲食をしている姿を見ていない。真ちゃんは先生を呼ぶ。食事を摂れない日が続いているから、点滴で栄養を摂るようにしているとのこと。最初のうちはきーちゃん本人も食べる意思を示して食事をしていたけど、すぐに吐くのが続いてしまって食事をしなくなったらしい。食事だけでなく無理矢理飲ませないと水分すら摂らなくなってしまったと言う。
先生が来て点滴を打ってもらおうとするけど、それをきーちゃんは拒否して寝室に篭ってしまった。「寝た隙狙ってやるか」先生も慣れた感じで、きーちゃんはもう少しすればまた少し眠るからその時に点滴を始められるようにと準備を始めた。
「キリエ、開けて。一緒に居って」真ちゃんが寝室の前でしばらく声をかけるとゆっくりとドアが開いて真ちゃんは寝室に入っていった。「今日も変わらずな感じやな」と先生は溜息をつく。そろそろ点滴できる血管無くなるんちゃうかと冗談交じりに言うけど、冗談に聞こえなかった。「動かさん方が目を覚まさんやろうし、ちょっとしたら様子見てきてもらえる?」と先生。目が覚めた時点で点滴を拒否してひどい時には自分で針を引き抜いてしまうらしい。
「よう、続けるわ」退院の時、精神科の受診を勧められた。真ちゃんは「それはしない」と言ってきーちゃんを連れ帰ったわけだけど、先生も正直ここまできーちゃんが酷い精神状態だと思わなかったし、真ちゃんがきーちゃんにここまで付き合うと思っていなかったと言う。「真ちゃんまで倒れないか心配なんだけど」「このままやったら倒れるやろうな。今は氣力だけでやってるんちゃいます?」
「何で連れてかないの?」「さあ、こればっかりは真弥から聞かな分からん。ただ、迂闊な判断をしたらお嬢のこれからの人生大きく変わるやろうからな」人生が大きく変わると言うけど、今の状態より改善する可能性があるなら連れて行けばいいのに。「自分が持っとる感覚が正氣に戻った時全部消えとったらどう思う?」きーちゃんを生きにくくさせていたものが無くなるのなら良いと思うんだけど。きーちゃんが元氣になった時に、なるべくラグが無いようにしているんだろう。それがとても自分に負担がかかったとしても。
「きーちゃんは何で点滴まで拒否するんだろ」「自殺念慮やと思っとる」「自殺!?」「お嬢の腕と首見たか?自傷行為だけでなくな、首括ろうとしたりしてな。もちろん、そんな事なる前に真弥が見つけて防ぐやろ。それからやわ。飲食を絶って死ぬのを待つしか今出来んからな」

首を括ろうとしたのは、退院した日。お風呂に入った時、腕を切り刻んだ後それでも逝けないことに氣付いたのかお風呂場で首を吊ろうとしたらしい。幸い、浴室の物干しはきーちゃんを支える程の荷重には耐えられず落ちてしまったらしいけど。その後も真ちゃんが寝た隙に起きてリビングのドアノブだったり、氣晴らしにと行った先で投身を試みようとしたり。それから、真ちゃんはきーちゃんの目に付きそうな所にある刃物は全て隠したし、生活全てに於いてつきっきりで自分が離れないといけない時は先生だったりおばあちゃまとお弟子さんだったりに頼んできーちゃんを1人にしないようにしていた。
「今ではマシになってはおるけど、最初は真弥にすら怯えてな。声をかけるのすら大変やったんやで」何でこんな目に遭わなきゃいけなかったんだろう。理不尽過ぎて怒りもなにも浮かばず唖然とするしかなかった。また前みたいにきーちゃんが笑える時が来るんだろうか。

寝室に様子を見に行くと、ベッドの上に座って2人が寝ていた。先生は真ちゃんを起こす。真ちゃんはきーちゃんの手を繋いで反対の腕で抱きしめた。右手の甲に針を刺す刺激できーちゃんは目を覚まして全身で拒否するけど真ちゃんが抑える。2人の腕を先生が固定する。その間真ちゃんはきーちゃんに優しい声で声をかけ続けて、 少しするときーちゃんは落ち着いて真ちゃんに体を預けた。それを見て先生が2人に布団をかける。これでしばらく休むらしい。特に真ちゃんはこんな体制で休めるわけがない。「終わったらまた交代したって。お嬢も私らよりも大好きなお姉さんが一緒のが落ち着くやろ」普段だったら「大好きなお姉さん」と言われたら喜んでしまうけど、今日は複雑だった。

なぜ、こんな目に遭わなきゃいけないんだろうか。きーちゃんもようやく落ち着いて、真ちゃんと笑っていたのに。アルバイトだって始めたし友達も一氣に増えて、誕生日のライブではたくさんの人がきーちゃんをお祝いしてそれを見て泣くほど喜んで。その日きーちゃんは「ねーさんが居なかったらこんな幸せはなかったよ。ありがとう」と言ってくれた。サプライズの最後に真ちゃんが選んだ歌は、真ちゃんが歌うとなるとこっちが恥ずかしくなるくらい甘いラブソングで「どれだけきーちゃん好きなんだ」と加奈子とからかったけど、その歌詞通り真似できない位にきーちゃんを守ろうとしている。まだ幼い子供だと思ってた女の子は、キラキラした笑顔の強くて優しい女の子に成長していた。なのに、理不尽な理由でその笑顔が消されてしまった。
前に夢に出てきた女の子は、きーちゃんだと思う。手放さなきゃいけない女の子の幸せを願い続けて、また奇跡的にこうやって出会えて、また幸せを願って。幸せな様子の写真を見せてくれて、会いに来てくれるたびに成長した姿を見せてくれて。
許せない。
あの家に居なかったら、きーちゃんはこんなに傷つかなかった。私が地元に戻ると言わなければ、みんなで過ごした家で笑って過ごせていたかもしれない。
「遡ってまで自分を責めるんちゃうで」そう考えが浮かんだタイミングで先生が言った。顔に出してしまったんだろうか。「こんなんなってしまった時な、全く関係ないのに周りの人間は助けられんかったって何故か自分を責めるねんな。それがこじつけのレベルでも自分が悪かった理由を探して。そんなんせんでええねん」先生の言っていることは分かるけど。「お嬢は生きてるからな。まだ取り返せるんやん。難しいかもしれんけど、お嬢が元氣なったら変わらんと接するんが一番やと思うで」

「お風呂入ろうかー」点滴が終わって、きーちゃんをお風呂に誘ってみた。昨日もお風呂で氣分転換になったみたいだったし、私ができる一番のことだし。
先生の言ってた通り、きーちゃんの腕と首にはたくさんの傷があった。昨日は大きな傷しか氣づかなかった。「最近はね、ヘッドマッサージもしてんだよー」シャンプーをしてトリートメントしてる間に仕事で覚えたヘッドマッサージもプラスしてみるときーちゃんは少し笑顔を見せた。湯船に浸かって、ハンドマッサージもしてみる。身体中が緊張しているのが分かった。

お風呂から上がると少し緊張が解けたのか、きーちゃんは寝室のベッドで眠ることが出来た。同じタイミングで真ちゃんも休んでもらった。でも、やっぱり心配なようで腕には黒いリボンが結ばれている。真ちゃんに寄り添って寝てるきーちゃんはいつものきーちゃんに見えた。安心して寝られたみたいで少しホッとした。
お風呂でマッサージを続けてみることにしよう。

私がきーちゃん達の所に来て5日。日中きーちゃんはだいぶ落ち着いて過ごせるようになっていた。睡眠も1時間2時間位ならまとめて寝られるようになってきたけど、夢を見るのか錯乱して起きてしまうのは変わらなかった。時々交代はするけど、真ちゃんはきーちゃんが起きてしまうたびに起きて落ち着くまで付き添っていた。その時も、やっぱり真ちゃんは「ごめん」と謝っていた。

1週間経つ頃、きーちゃんは窓の近くに立って外を眺めるようになった。「外、出てみるか?」3人で庭に出てみる。きーちゃんは眩しそうに空を見上げていたけど、私達を見て「ごめんなさい」とうずくまって泣いてしまった。久しぶりにきーちゃんの声を聞いたのに「ごめんなさい」だった。それでも、日光に当たるのが良かったのか夜まで落ち着いて過ごした。
きーちゃんは私が来てから一度も食事をする事は無かったけど、真ちゃんは毎食きーちゃんの分も用意していた。「真ちゃん、お腹すいた…」きーちゃんの小さな声が聞こえた。真ちゃんはソファーで仮眠を取っていたけど、小さな声に氣付いて目を覚ました。「今、作るな」そう言って立ち上がって台所に向かった。お茶を淹れに行くと、伸びた髪できちんと見えなかったけど多分泣いていた。
「おいしいねー。ありがと」ゆっくりと野菜スープを飲んできーちゃんが言った。「真ちゃんのお料理、好きー」と言いって微笑むきーちゃん。「どういたしまして」と言って笑う真ちゃんは本当に嬉しそうだった。
今まではほとんど動かなかったきーちゃんは、食事が出来るようになって自分で動くようになった。その代わり、小さい子のように真ちゃんの後をついて回る。そんなきーちゃんを見て真ちゃんは嬉しそうだった。